日本における難民保護:経済的利益目当てであってはならない

日本の難民の保護は不十分である。しかし、高齢化社会には移民の受け入れが必要であるという議論は、難民保護には有効でない。


By: Saul Takahashi 
June 15, 2016

Available in:
English


2015年9月、安倍首相が国連総会出席のためにニューヨークを訪問した際の記者会見で、ヨーロッパにおけるシリア難民の流入に対して日本はどのような対応をするのかと聞かれた。当然予測可能であったはずの質問であったが、「移民を受け入れる前に、女性の活躍であり、高齢者の活躍であり、出生率を上げていく」という彼の回答は驚くべきものだった。難民保護が、適切なタイミングになれば検討する単なる政策オプションの一つでなく、国際法が求める的義務であるという事実は、安倍首相は思いつかなかったようである。

日本の難民の受け入れがあまりに不十分であること。

 国際人権基準の義務に対する日本の傲慢な態度は、残念ながら何も新しいことではない。しかし、安倍首相の発言は、日本の難民政策に関する2つの要素をも提示している。まず、日本の難民の受け入れがあまりに不十分であること、そして日本では、難民政策が移民に関連する議論に包含されてしまっているということである。

日本の難民政策は甚だ不十分である。2015年に7,586名の難民申請があり、同年にたったの27名が認定された。更に79名は人道的見地から滞在が許可されたが、それでも合計数はたったの106名である。長引く認定プロセスの間に、難民認定申請者が 数か月あるいは数年も拘留されてしまう のは珍しいことではない。2005年、非難に対応する形で、日本政府は異議申し出を審査する参与委員制度を設立した。改善ではあったものの、参与委員の意見に法的拘束力はなく、最近では、委員が認定を勧告しても政府が不認定とする例が出ている。更に、2010年から試験的に実施されている難民再定住のプログラムのもとでも、たったの86名の難民しか受け入れられていない。

安倍首相のコメントはまた、日本で難民に関する議論全体が、移民についてのより広い議論といかにつながってきたか―まさに、それにいかに乗っ取られてきたか―を示唆している。日本は慢性的に低い出生率に悩まされており、その結果として人口の縮小及び高齢化といった問題が生じている。政府がとってきた対応策は断片的かつ不十分であり、国民保険などの福祉制度や年金の長期的持続性に関する不安が根強い。

この危機に対するひとつの解決手段であるとして、移民の受け入れが提唱されてきた。依然として多くの日本人は、大勢の外国人が移住し、日本文化の「単一性」を脅かすのではないかと不安に思っていると言える。しかしそれでも、移民の受け入れがもはや不可避であるという空気があったのは否めない。いやが応でも、多くの外国人を受け入れ、「日本人になってもらう」-それが何を意味していようとも―が前に進む唯一の方法と思われた。


Flickr/International Organization for Migration (Some rights reserved)

An official Japanese envoy visits Syrian refugees in Iraq.


その文脈の中で、難民支持者を含むコメンテーターなどの中で、難民へのより手厚い保護を促進する手段として、移民の議論に便乗しようとする者がいたのは当然かもしれない。難民は単に支援を必要としている人たちでなく、労働力であり、経済に貢献し、結果的に社会を豊かにするという議論である。

この議論につきものなのは、「難民」の肯定的な「ブランディング」である。日本に限らず、それは多くの難民支持者が否定的な難民像を払拭する手段の一つだと見てきた。受け入れ国のオフィスや工場で熱心に働く難民の宣伝は珍しくない。また、UNHCRの「アインシュタインは難民だった」というキャンペーンも広く知られている。難民保護がより広い意味での移民流入の一部という日本での認識を造り上げることには、安倍首相や政府関係者だけでなく、難民支持者も一役買ってきたのである。

しかし、受け入れ国において潜在的な利益があるかどうかに関わらず、 難民を保護することが国際的義務であるということは強調される必要がある。受け入れ国が経済的移民の受け入れに利点があると認識しているかどうかに依拠するものではない。実際は曖昧な部分も時にはあるが、難民と経済移民の間には法的な境界線があり、その境界線は極めて重要なものである。全ての難民がアインシュタインのような奇才というわけはなく、難民の中にはその経験で深いトラウマ(あるいは身体的な障害)を負い、労働が出来ない者もいる。難民を単に被害者と描くのは十分でなく、そのような認識が見下すような態度につながることもあるので、注意が必要である。しかし同時に、彼らを主に経済に貢献してくれる者と描くことは「よい」難民(労働できる難民)と「悪い」難民(何らかの理由で労働出来ない難民)の区別を生んでしまうリスクも孕んでいる。

日本では、多くの人の頭の中にすでに「よい外国人」と「悪い外国人」の区別がある。「よい外国人」は、主に優れた技術を持ち(一般的には白人)、日本に先進的な技術や思想をもたらしてくれる人たちである。また、多額のお金を使ってくれる観光客も含まれる。外国人技能研修生やアジアなどその他の国から人身取引される性奴隷、そして3Kの仕事に従事する、就労許可のない移住労働者など日本人にサービスを提供する人たちも、「よい」とまで言えなくても、受け入れられる範囲内である。

「よい外国人」の一番の特徴は、使い捨てであることである。すなわち、不要になれば簡単にポイ捨てができる。我々日本人は彼らの労働から利益を得て、彼らも日本に受け入れて「あげる」我々の絶大な寛容さを享受する。反対に、「悪い外国人」はトラブルメーカーであり、日本人の強要するルールに則って行動しない人たちを指す。「よい外国人」のように一貫して謙虚さと日本人への感謝を示すのでなく、「悪い外国人」は差別的な扱いに異議をとなえ、「権利」を主張する。

日本において移民に関する議論はかなり下火になった。大規模で永続的な移民の受け入れが多くの日本人にとって困難すぎるというのが主な理由である。移民の受け入れの提唱者は今でもいるが、幸か不幸か、彼らの主張はもはや主流ではない感がある。そして、難民は一般の多くの人の頭の中で経済移民と結びついているので、難民政策に関する建設的な、わずかな議論さえもなくなりつつある。安倍首相の国連でのコメントは日本の主流メディアでほとんど報道されなかった。更に憂慮すべきことに、日本の右派は、特にシリア難民のヨーロッパ流入を利用して、反難民的な感情を掻き立てようとしている。

日本の難民保護は甚だ不十分でである。少なくとも長期的には、難民を受け入れることは恐らく日本経済に有効であろう。しかし、労働力の確保など経済的な思惑が難民保護の目的であってはならない。日本の経済的利益だけに着眼した議論の中で、日本の法的、および道徳的な義務が見失われるのは危険である。国際的義務に従おうとしない日本のあり方に、我々は正面から取り組まれなければならない。


高橋宗瑠(たかはし・そうる) 青山学院法学部講師、人権活動家。著書に「パレスチナ人は苦しみ続ける:なぜ国連は解決できないのか」(現代人文社、2015年)、Human Rights, Human Security, and State Security: the Intersection(Praeger社、2015年)、Human Rights and Drug Control: the False Dichotomy(Hart社、近日刊行)

 
 


 

AIが進化を続ける時代における真の責任とは?

BY: Dunstan Allison-Hope & Mark Hodge
English | Español | Français

 

COMMENTS